『書物の迷宮』予告篇

思い出したように本を読み、本の読み方を思い出す

わたしとわたしとわたしとわたし(アンナ・カヴァン『氷』)

分析ではなくて感想を書きたいのだけれど、それが一番難しいのです。(前言い訳)
アンナ・カヴァン『氷』読了。面白かったです。カヴァンを薦めてくれたid:maaya331さん、ありがとう。
実はこの小説、「私的な日常(小状況)とハルマゲドン(大状況)を媒介する社会領域(中状況)を方法的に消去した作品群」という笠井潔の解釈でいうと、セカイ系*1に含まれると思うのですがどうなんでしょうか*2。本自体の刊行は1967年なので、セカイ系のセの字もない頃のSF小説ですが。
(ストーリー要約を書こうと思いつつもうまくまとめられず……省略。)
似たような感覚の作品として、崩壊する世界という点ではJ.G.バラード、時おり「私」の主観を離れて挿入される描写、その反復*3はW.バロウズを連想させます。
また、この小説の人物及び世界に関する描写すべてが、作者自身の世界に対する感覚というか、印象を色濃く反映してます。本当は「私」も「長官」も「少女」も、アンビヴァレンスに引き裂かれた同一人物なのではないか、と感じがしました。また、少女を追うのをやめるか否かという自問自答から「少女」がヘロインの暗喩という気も。
そう言えば、バロウズもカヴァンも麻薬を使用していた人だなぁ……。しかしその点については、似ているという以上に言えることはなく。「裸のランチ」を読んだ限りでは、カットアップによる編集で改変されたイメージとカヴァンの生のままのイメージではだいぶ印象が違いますし。文章自体はまったく似ていない。

感想がうまく書けない言い訳としては、三人の主要登場人物が同一人物の閉じた構造(と私に見えていること)や、「長官」が超克への期待のように見える以上、ラストで得るものがカタルシスというには異質な印象を受けたこと、かな。特にラストで受けた印象をなんと言えばいいのかが分からないので……。(後言い訳)

*1:この小説が「セカイ系」に含まれない場合の根拠としては、セカイ系小説群は登場人物にコードを導入することで、登場人物の私(作者)化を防止しているように見える点が挙げられるかと。このセカイ系観に一般性があるかはさておき。つまり、自分語りを疑似的に防止しているか、していないかの点?

*2:誰に対する疑問なのかは謎。

*3:回数は少ないですが