『書物の迷宮』予告篇

思い出したように本を読み、本の読み方を思い出す

アンナ・カヴァン『氷』(復刊・改訳版)

前回の感想↓
わたしとわたしとわたしとわたし(アンナ・カヴァン『氷』) - 大よろこびする優しい雷鳴

以下、内容に踏み込み気味なので未読の人は↑だけどうぞ。

改訳による影響なのか自分の読みかたが変わったのか、前回とかなり印象が変わったし、前回気がつかなかった点にも気付いた。
前回読んだときは、主要な登場人物「私」「長官」「少女」の三人が同一人物を三分割して作ったキャラクタに見えた。
しかし今回再読して、「少女」については二種の側面: 犠牲者 - 執着の対象ではあるが、私 - 長官とは別の存在であると感じた。


前回気がつかなかったのだが、この話は循環する構造となっている。
前半部、「長官」が「少女」を連れて遁れていくシーンがあるが、このシーンと同じ状況が物語の最後にある。
また、このとき「私」が視る情景のなかで、少女の膚に歯型がつけられている、という描写があるが、これもまた物語の最後にある。それ以外にもいくつかの小道具が同じく登場している。
そして、この長官たちの脱出ののちに「私」もまた船で同地を遁れるのだが、このとき、「私」が一瞬だけ視る幻がある。

私はショックを受け、足を止めて、その光景を見つめた。私の前をすべるように通り過ぎていく陽光に照らされた港。町は活気にあふれている。広々とした街路が見える。身なりの良い人々、近代的なビルの数々、車、青い水に浮かぶヨット。雪はない。廃墟もなく、武装した衛兵もいない。これは魔法だ。夢で見た光景のフラッシュバックだ。次いで、新たなショックが襲う。これこそが現実であり、ほかの出来事のほうが夢なのかもしれないと思い到った時の、身体が揺さぶられる現実感。突如、これまでの日々が非現実的なものとしか思えなくなった。

11章で登場する町、また物語終盤、少女の滞在している町、これらはまったく同じ場所なのではないだろうか。


上記引用のシーンの後、「私」は少女失踪についての証人として審判にかけられる。

「私は、当証人が精神病患者、おそらくは分裂病者であり、したがって、その証言も信じるに足らぬものと申し上げたいと思います」

審判におけるこの台詞が、この『氷』の真相なのではないか。この審判こそが、この物語の最後の一場面なのではないか。
「信頼できない語り手」としての「私」。「私」は時間・空間の認識が混乱した人物なのではないか。だとすると、彼が観た「少女」の死のヴィジョンは何なのだろうか。


アンナ・カヴァンのKはカフカのKだが、カフカの『審判』においては主人公「K」は外部によって否応なしの、縁もゆかりもないような審判に呼び出される。
カヴァンの『氷』においては、「私」=「長官」によって支配される「少女」こそが「K」なのかもしれない。