『書物の迷宮』予告篇

思い出したように本を読み、本の読み方を思い出す

伊藤計劃『ハーモニー』

この小説を読むときに、「これはユートピア=ディストピア小説」という先入観があったのだけど、実際には違った。
『ハーモニー』の世界は、病気というものが一部の遺伝病を除いて根絶された世界、WatchMeという体内のインプラントによって身体の恒常性が維持され、またそれによって、健康/健全であること当然のことであり――それが徹底されている世界だ。
ただ、子供はその成長という変常性(?)から、WatchMeはインプラントされていない。
ストーリーとしては、主人公が少女時代に出会った御冷ミァハとの縁起から始まる。


ユートピアというのは遍く同質性を構成員に求めるものであって、共通の約束事を共有しているという意識、もしくはそのもっと漠然とした雰囲気、「空気」が『ハーモニー』の世界をユートピアのようにみせている。
少女らは大事に管理されているが、それは彼女らの異質性を排した「公共物」=社会に対して同質性をもつもの、としてだ。
この公共物の損壊、という形で彼女たちは小さな革命を起こすのだが、押井守っぽい錯した革命*1だと思う。作中で述べられているが、彼女らに倒すべき具体的な敵はいないのだ。
「空気」は革命の祝祭で首をギロチンにかけられる王、供犠の代わりにはならない。
最終的にミァハがしたことは、自分自身を倒すべき相手として世界の前に蘇えることで、自分自身を供犠として革命自体を成立させる、というような倒錯した革命だったのではないか、と思う。
だから、この物語はユートピア小説なのではなく、ユートピアが成立するまでの話なのだ。


また、倒すべき=克服されるべき社会が、象徴を持たないという点で、『ハーモニー』はビッグ・ブラザー的管理社会とは微妙に異なるような印象を受けた。
社会の同質性を保っている、最大の権力、バタイユの言葉でちょうど良さそうなものを使うと、〈至高であるかのごとく信じられる審級〉としてのビッグ・ブラザーがここでは不在なのだ。
だからこそ、紛い物の至高性、異質性を帯びた存在としてミァハが、『ハーモニー』社会のなかの人々に残された最後の異質性*2を無理矢理まとめあげる役目を引き受けているのではないかと思う。


ユートピア小説として読み始めて、革命の話として読み終えたのだけど、感じとしては押井守の『犬狼伝説』のシリーズや『パトレイバー2』に近い感じがした。
最終的に成立したユートピアについては、なにか物足りないところもあったけど、それ以外の小説として読んだのでかなり満足。


ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

*1:パトレイバー2』に似ている部分があるように思う。

*2:ミァハの持つ異質性とは反対物