『書物の迷宮』予告篇

思い出したように本を読み、本の読み方を思い出す

『インセプション』

「入れ子になった夢の、それぞれ圧縮された時間のなかで連続的に迫る決定の瞬間」といった複雑になりそうな話を、分かりやすくまたエンターテイメント的にも意味のある形で提示するあたりに、力量みたいなものを感じた。
明晰夢的な、自由に構築できる夢というあたりに実質的現実という意味でのVRを見ることもできるのかなぁ、と思った。


以下ネタバレを含む考え過ぎ。

このようにして何千年かが過ぎていく。かりに彼が最後の城門から走り出たとしても――そんなことは決して、決してないであろうが――前方には大いなる帝都がひろがっている。世界の中心にして大いなる塵芥の都である。これを抜け出ることは決してない。しかもとっくに死者になった者の使いなのだ。
――カフカ『皇帝の使者』


「最後のシーンでコマが倒れるか倒れないか」が明かされないように、全体的にどちらが現実で、どちらが夢のなかであるのかが明確に表現されないようになっていると感じた。
登場人物の一人、アリアドネはその名をミノスの迷宮でテセウスを導き出した「アリアドネの糸」のアリアドネから取っているのだろう。
彼女の登場する最初の場面で、主人公は彼女に迷路を書かせ、そのうち2つは即座に解いてしまう。だが、最後の円形の迷路を主人公は解くことなく彼女に合格を告げる。
この円のメタファは他の場面にも登場し、主人公は自らのトーテムであるコマが倒れるか倒れないかで夢と現実を区別するが、コマが回る=円運動と見ることもできる。
劇中で主人公がコマを見せる際に「Spin, Spin」とその回転運動を強調する。そのコマが描く円は、主人公が脱出できない迷宮のなかにあることを暗示するのだ。
また夢のなかから脱出する方法としての「キック」は、コマが倒れることと同じになっている。


主人公は自らの記憶の夢のなかで、妻との日々を幾度も再現している。
この夢の日々を移動するためのエレベータで、妻の自殺する部屋の夢は地下にあることになっている。
それはあるホテルの上層階の一室となっているのだが「もし記念日にホテルの部屋を取るならば、どんな部屋を取るだろうか」というのが気になった。それが最上階であれば少し面白い。
なぜならそれが最上階であるならば、記憶の地下にある部屋が最上階の部屋にあるというループ構造になる。これと似た構造は他にもある。
終盤、主人公とアリアドネの潜る夢のなかで、妻が待つ非現実のビル上層階には、主人公の家の庭という地上がある。ここで主人公は「夢のなかであるならば顏を見ることが出来ない」と分かっていながら、あえて子供の方を見ようとはしない。
夢の構造は階層構造を成しているが、その夢の中の構造は地下と地上が循環しているかのようであり、夢の深みから覚醒の地上に脱出することが可能なのかが怪しくなってくる。
またこのあとサイトーを救うべく主人公がダイブした先が、映画導入部そのものというストーリーの構造自体も、もう一つの輪と呼べるだろう。


そして主人公が自らの家に帰宅し子供たちに再会する、という自らの夢を現実にしてしまったとき、劇中の夢と現実はメビウスの輪めいた構造となってしまう。
だからこそ、劇中最後の場面でコマは倒れるでも倒れないでもなく、ただ暗転する。
観客は現実に引き戻されるでもなく、ただメビウスの輪の上に置き去りにされたのだ。

しかし、きみは窓辺にすわり、夕べがくると、使者の到来を夢見ている。
――カフカ『皇帝の使者』