『書物の迷宮』予告篇

思い出したように本を読み、本の読み方を思い出す

映画『イノセンス』

かなり前に書いて公開にするのを忘れていたので、1年経つ前に公開しておこう……。

 

 

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イノセンス』を劇場で観れるというので、行ってきた。

初めて『イノセンス』を観たのは12年近く前の札幌で、まだ球体関節人形の実物を観たことはなかった(人形屋佐吉にも行ってみたが、その日は閉まっていた)。

ここ何年かで人形を作る側の人と話をする機会があって、そのとき何度か『イノセンス』やそれに付随するイベントであった東京都現代美術館での球体関節人形展の話などが出たが、割りと作る側の人からは『イノセンス』が評判が悪いことが多くて面白く思っていた。

また、わたしは球体関節人形を観にギャラリーなどに出かけるのが好きだが、人形を嫌い・怖いという人がいて、その感覚もよく分からなくて面白いなーと長いこと不思議だった。

今回はずっとその辺のことを考えながら『イノセンス』を見ていた。

 同じ日に観に行った人がこんなことを言っていたのだが、わたしも観なおしていて、実際のところ『イノセンス』で人形が人形として登場してくるシーンが殆ど無く、その際登場している人形も、いわゆる人形というよりは、澁澤龍彦が『少女コレクション序説』などで触れたような、完全な客体の象徴みたいな形でしか描かれていないな、という気がしていた。

イノセンス』作中で人形が人形として描かれているのは、ラストの動くことをやめた、人間の意識が介在しなくなったときのガイノイドたちだ。作中で引用されるハインリッヒ・フォン・クライスト『マリオネット劇場について』からのとおり、この作中では優美さを持つものは意識を持たない人形と、無限の意識を持つ神としての元少佐だけだ。

周りの人形関係の人の話を聞いていて特に評判が悪いなと思っていたキムだが、あれは人形という一つの神を真似ている猿のようなもので、それこそバトーの言うとおり「死体のように寝ている」、露悪的な醜さだなと思った。

"生死去来棚頭傀儡一線段時落々磊々"が引用されるが、おそらくこの言葉を引いてきた由来には、先のクライストの『マリオネット劇場について』がある。澁澤龍彦の引用で知られるとおり、操り人形の無重力性は人間の自意識の反対物であって、それゆえに人形は優美さにおいて人間に優る、という話だ。

 キムが自分に死が訪れた時に、ガイノイドが自分の意図通りに暴走する、という仕掛けを残していたのは、自分が決して成り得ない一つの似姿としての人形に対する復讐であり、また人間に対する嫌悪の発露であり、というように思える。

 

人形が怖いと恐れる人は多分、ここで言えば意思が、人形そのものから発されてるものと見えているのかなと思う時がある。

 

わたしはクライストの無重力と優美の話は面白いなと思う反面、それほど同意するわけではない。たぶんここには暗黒舞踏について土方巽が述べたところの「ただ身体を使おうというわけにはいかないんですよ。身体には身体の命があるでしょ。心だって持っている」のような感じが抜けている。

 

 そういえば終劇時に泣いている人がいた、という話を聞いて、なんとなく分かるような気がした。わたしも初めてこの映画を観たとき、オープニングのシーンで意思もなく苦しみなどというものも持たない人形が、わざわざ誰かの意思を吹きこまれて操られている、と思って泣いたように思う。

人形は死体に似ている、という話があり、たしかにそういうものもあるのだが、むしろ死んだところで人間は人形にはなれないのだ、という話であったような気もする。