映画『イノセンス』
かなり前に書いて公開にするのを忘れていたので、1年経つ前に公開しておこう……。
『イノセンス』を劇場で観れるというので、行ってきた。
初めて『イノセンス』を観たのは12年近く前の札幌で、まだ球体関節人形の実物を観たことはなかった(人形屋佐吉にも行ってみたが、その日は閉まっていた)。
ここ何年かで人形を作る側の人と話をする機会があって、そのとき何度か『イノセンス』やそれに付随するイベントであった東京都現代美術館での球体関節人形展の話などが出たが、割りと作る側の人からは『イノセンス』が評判が悪いことが多くて面白く思っていた。
また、わたしは球体関節人形を観にギャラリーなどに出かけるのが好きだが、人形を嫌い・怖いという人がいて、その感覚もよく分からなくて面白いなーと長いこと不思議だった。
今回はずっとその辺のことを考えながら『イノセンス』を見ていた。
イノセンス、人形愛の映画ではなく、人間嫌いの映画だよなとしみじも思った次第。
— monado (@monado) 2016, 1月 10
同じ日に観に行った人がこんなことを言っていたのだが、わたしも観なおしていて、実際のところ『イノセンス』で人形が人形として登場してくるシーンが殆ど無く、その際登場している人形も、いわゆる人形というよりは、澁澤龍彦が『少女コレクション序説』などで触れたような、完全な客体の象徴みたいな形でしか描かれていないな、という気がしていた。
『イノセンス』作中で人形が人形として描かれているのは、ラストの動くことをやめた、人間の意識が介在しなくなったときのガイノイドたちだ。作中で引用されるハインリッヒ・フォン・クライスト『マリオネット劇場について』からのとおり、この作中では優美さを持つものは意識を持たない人形と、無限の意識を持つ神としての元少佐だけだ。
周りの人形関係の人の話を聞いていて特に評判が悪いなと思っていたキムだが、あれは人形という一つの神を真似ている猿のようなもので、それこそバトーの言うとおり「死体のように寝ている」、露悪的な醜さだなと思った。
"生死去来棚頭傀儡一線段時落々磊々"が引用されるが、おそらくこの言葉を引いてきた由来には、先のクライストの『マリオネット劇場について』がある。澁澤龍彦の引用で知られるとおり、操り人形の無重力性は人間の自意識の反対物であって、それゆえに人形は優美さにおいて人間に優る、という話だ。
キムが自分に死が訪れた時に、ガイノイドが自分の意図通りに暴走する、という仕掛けを残していたのは、自分が決して成り得ない一つの似姿としての人形に対する復讐であり、また人間に対する嫌悪の発露であり、というように思える。
人形が怖いと恐れる人は多分、ここで言えば意思が、人形そのものから発されてるものと見えているのかなと思う時がある。
わたしはクライストの無重力と優美の話は面白いなと思う反面、それほど同意するわけではない。たぶんここには暗黒舞踏について土方巽が述べたところの「ただ身体を使おうというわけにはいかないんですよ。身体には身体の命があるでしょ。心だって持っている」のような感じが抜けている。
そういえば終劇時に泣いている人がいた、という話を聞いて、なんとなく分かるような気がした。わたしも初めてこの映画を観たとき、オープニングのシーンで意思もなく苦しみなどというものも持たない人形が、わざわざ誰かの意思を吹きこまれて操られている、と思って泣いたように思う。
人形は死体に似ている、という話があり、たしかにそういうものもあるのだが、むしろ死んだところで人間は人形にはなれないのだ、という話であったような気もする。
菊地拓史・森馨『Square and Circle』、泉屋博古館分館 特別展『きものモダニズム』
六本木駅を出てちょうど足の下に大江戸線をなぞって横断歩道を渡り、ゆるい坂を下っていくと途中に黄色の横縞模様のビルが見えて、それがストライプハウスギャラリー。
帰りがけに泉屋博古館分館に立ち寄って、着物モダニズム展を見た。
ジャック・ヴァンス『奇跡なす者たち』
「黄色! それだけは、いかなる陶匠もいまだ創りだすことの出来ぬ幻の色。鉄はくすんだ飴色しか呈さず、銀は灰黄色に濁り、アンチモンは〈窯焼山〉の高熱に耐えきれぬ。醇乎として醇なる黄色、日輪の黄色――おお、それこそは、われらが求めてやまぬ夢の色……」
―ジャック・ヴァンス「フィルスクの陶匠」
河出文庫の『20世紀SF〈3〉1960年代・砂の檻』に収録されていた「月の蛾」が特に気に入ったことから『奇跡なす者たち』を買ったのだが、こちらも随分長く積んでしまった……。ちなみに「月の蛾」は『奇跡なす者たち』にも収録されている。
収録作の中で特に気に入ったのは「フィルスクの陶匠」、「奇跡なす者たち」、そしてやはり「月の蛾」。
「フィルスクの陶匠」はある惑星で手に入れたという見事な黄色の大鉢についての由来の語りから始まる。本書の一番最初に収録されている短編だが、ジャック・ヴァンスの良さがよくわかるので、店頭で手にとってこの短編で肌に合うかどうかためしてみるのも良さそう。
「奇跡なす者たち」は惑星間航行するほどの文明を持っていたが、その技術を失い、地上で剣と魔術でもって相争う人間、そして彼らに追いやられた先住生物の話。おなじく収録されている「最後の城」などもそうなのだけれど、高度に発達した文明というものが滑稽なくらいに衰退しているという状況がよくジャック・ヴァンスでは出てくる。
「奇跡なす者たち」でも剣と魔術以外にもそういった文明の残り香が登場するが、それらはすでにメンテナンスするための正しい知識もなく、その道具でもって可能な正しい挙動も理解されていない姿が描かれている。
「月の蛾」は舞台設定がとても楽しい。惑星シレーヌは工芸・音楽・詩などといった文化が高度に発達しているが、人々は極端に個人主義的でまた誇り高くて気難しい。そのうえ彼らとコミュニケーションするには素顔を様々な象徴的な役柄の仮面で隠し、そして多数の楽器と複雑な音階でもって韻律豊かに詠わねばならないのだ。
この難儀な惑星で主人公の惑星の習俗にも慣れず、楽器も使いこなせていない官史が右往左往しながら犯罪者を追う。相手はこの惑星の習俗に慣れており、しかも人々はみな仮面で顔を隠している……。
「月の蛾」もそうだったのだが、『奇跡なす者たち』に収録される短編を読んでいると、ジャック・ヴァンスという作家は「異なる文化」の取り扱いが巧みなかんじをうける。異星SFやファンタジーSFなどの形を取っているが、そこでぶつかり合う「異なる文化」の仕掛けがとてもうまく働いていて、そこが魅力になっていると思う。
グレッグ・イーガン『プランク・ダイブ』
「そんな苦しみをあたえるどんな権利が、わたしたちにあるというんですか、いったい?」
「きみは自分が今ここに存在していることに感謝しているだろう? 進化上の祖先たちがどんな苦しい目にあってきたとしても」
― グレッグ・イーガン「クリスタルの夜」
だいぶ前に買って長く積んでいたのだけれども、それにしても久しぶりにイーガンを読んだような気がする。
収録作のなかで気に入ったのは3つほどで、その中でも特に興味を引いたのは「クリスタルの夜」。
「クリスタルの夜」は高速な計算機械上の人工生命にさらに高度な計算機械を実装させる男の話。人工生命は人類よりもはるかに速い時間の流れの中を、男の意図によって何度も破局や死、不遇に合わせられながら、自分たちの生のために男の願いを叶えなければならない。
あとがきの方に書いてあるのだが、この話はもともと"知性を持つプログラムの生殺与奪をもてあそぶのは忌むべき行為ではないか"というイーガンのサイトのフォーラムであった議論を元にしているらしい。そちらの議論では「問題がない」という意見が強かったらしい。なんとなく「鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。 声あるものは幸いなり。」という話を思い出す。
「暗黒整数」は短編集『ひとりっ子』に収録されていた「ルミナス」の続編で、我々の世界の数学とオルタナティブ数学の陣取り合戦めいた戦いの話。イーガンの短編のなかでは「ルミナス」が特に好きなので、こちらの話もよく楽しめた。
「ワンの絨毯」は海洋に覆われた異星で生命体らしきものを発見する話。最初の舞台設定がちょっと『ソラリス』を思わせるが、異星で発見されたものの正体はなかなか奇想天外なシロモノで面白かった。
『ディアスポラ』(未読)を先に読んでいた方が読みやすいのかな、と作中の用語から思ったのだが、実際には『ディアスポラ』の方にこちらの内容が改稿されて取り込まれているらしい。
というわけで、次のイーガンは『ディアスポラ』が読みたいなという気持ちになった。
- 作者: グレッグ・イーガン,鷲尾直広,山岸 真
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ウラジミール・ソローキン『青い脂』
個体は七体。トルストイ4号、チェーホフ3号、ナボコフ7号、パステルナーク1号、ドストエフスキー2号、アフマートワ2号、プラトーノフ3号。
― ウラジミール・ソローキン『青い脂』
額を怪我して入院していたので、ゆっくり本が読めた。
ソローキンの本を読むのは『愛』以来2冊め。『愛』の方はストレートな文学的文章からナチュラルに糞尿や肉片で不意打ちをかけてくる感じだったけど、割りと好きな作品がいくつかあった*1。だいたい読ませた人は凄い顔をしていた。
今回の『青い脂』は長編SF仕立てになっており、最初は書簡調でボリスという男が『青脂』という物質を文学者のクローン(というにはあまりに異形な)たちから得る実験の話を語るところから始まるのだが、話の舞台はどんどんと代わり、シベリアの大地交合者教団なる宗教組織、最終的にはパラレルワールドのソ連、そしてドイツ第三帝国にまで行き着く。
前半部分はかなり特有の用語が乱れ飛ぶのだけれど、中国、ロシア、英語などの単語・フレーズがごちゃまぜになって飛び交う会話がかなり背景を埋めてくれるので、慣れるとかなりこの部分が楽しい。
複数の舞台を移るあいだに、前述の文学者のクローンによる小説や詩が挿入されるのだが、元の文学者要素もありつつソローキン味に染まってる感じでなかなか良かった。
挿話関連だと、人肉で駆動する機関車の出てくるプラトーノフ3号『指令書』、トルストイ4号の絞殺獣なる獣のような人間と狩りをする話、大勢の男達が川の流れのなかで松明をかかげ文章を描く『水上人文字』、水中に沈んだボリジョイ劇場と糞尿の話『青い錠剤』などが面白い。とくにクローンの書いたものは、ロシア文学に通じていればもっと楽しめたのかなと思った。
恐ろしく乱暴に話を要約すると、劇場版『AKIRA』とウィリアム・バロウズを混ぜてソローキンでまとめた感じなのだが、『愛』と同じでこれを誰にどのように薦めていいかわからない……。
とりあえず、お手にとって「凄い顔」をしてもらいたい。
- 作者: ウラジーミル・ソローキン,望月哲男,松下隆志
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2012/08/23
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ジョルジュ・ペレック『給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法』
リラックスしてください!
―ジョルジュ・ペレック『給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法』
『給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法』という実用書めいた本を書いたのはフランス語の再頻出母音Eを含まない小説『煙滅』などの作者ジョルジュ・ペレック。作者は「あなた」に次々と「給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法」についてアドバイスをしてくるが、その困難と情熱の道筋は巻頭ですでに予告されている。
フローチャートで。
文章は句読点抜き改行なし。ちょうど 筒井康隆が怒涛の勢いで使ってくるような感じの文章だが、その内容はといえばクヨクヨウロウロと部署から部署、曜日から曜日、上司の在不在、受付嬢のご機嫌、はたまた食堂のメニューの狭間を給料のためにさまよい歩く「あなた」の物語になっている。
実用書めいた本書の呼びかけと、途切れることなくフローチャートを辿っていく文章がだんだんツボにハマって来て、ペレックの小説のなかでもかなり好きな部類という感じ。ストーリーの楽しみというよりは、テキストの楽しみという感じがある。
あとがき中にある著作計画に関する手紙のなかに、
クノーが『あなたまかせのお話』でなしたのとまさに正反対のことをしながら、私はあるフローチャートを線的に展開させました。
という部分があったので、次はウリポとこのつながりで『あなたまかせのお話』も読んでみたくなった。
円城塔『シャッフル航法』
強引でもいい。
逞しく育ってほしい。
― 「Beaver Weaver」
円城塔の書く話はわりと好きで、ここ最近めっきり本を読まなくなったなかでも思い出したように読んでいる。
今回の『シャッフル航法』のなかでは個人的にカート・ヴォネガットのトラルファマドール星人ものやダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイクガイド』あたりを連想させる「イグノラムス・イグノラビムス」が好みだった。
多分この宇宙では「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」は750万年後に42だと明らかになり、宇宙船の新型燃料を実験しているときに宇宙は消し飛んでしまうことが予め知られていたりするだろう。
他には表題作の「シャッフル航法」や「Φ」がウリポ的な感じでいまの好みにあっていた。とくに「Φ」の感じはジョルジュ・ペレック『煙滅』冒頭の祈りの場面を連想した。
あと「Beaver Weaver」はある種のサイキックバトルか何かのように読めてきて、うっかり上遠野浩平のナイトウォッチ三部作やら山田正紀の『チョウたちの時間』などの徳間デュアル文庫で昔出ていた本を本棚から発掘したくなったりした。
円城塔はプログラミング的な話が入ってくるあたりで少しイーガンを連想したりするのだけど、むしろイーガンのような生真面目な重さみたいなのよりは、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』みたいな軽さがあって、そこが好ましい感じだなという気がする。*1