『書物の迷宮』予告篇

思い出したように本を読み、本の読み方を思い出す

芸術が芸術である根拠

松井冬子を見ながらTwitterしていたら、
http://twitter.com/vaac/statuses/792978025
この発言からちょっと思いついたので、少しまとめる。
上記に対する自分のレスポンスとしては以下。
hazy moon on Twitter: "@vaac 芸術と呼ばれたものだけが芸術"
hazy moon on Twitter: "現代芸術が、「これは芸術です」と言えば芸術になるのは、元々芸術が「これは芸術です」と「言われれば」芸術になるものだったからだと思う。"
hazy moon on Twitter: "「これは芸術だ」という自己主張は、だからパンク的なものなのだと思う。"


「芸術」というのは元々受け身なもので、それは多分芸術の起源が、王侯貴族趣味人から受け負う職人たちのものだから、というのがあると思う。
「芸術」は鑑賞者たちにより定義され、彼等が「芸術」と見做すものこそが芸術であり、それ以外のものは芸術ではない。
だから、美術館に置かれたものは、「美術館にある」ということによって、鑑賞者によって芸術だと見做される。
こういう状況に対するテロルとしての要素を、現代芸術は持っている。
分かりやすい例としては、イギリスの現代芸術家が「架空の芸術作品を美術館に勝手に設置する」というパフォーマンス。
「これは芸術です」と主張する、現代芸術におけるパフォーマンスは、元々鑑賞者、さらには鑑賞者を先導するものとしての批評家への、挑戦になっているという構図。
もちろんそこには、パンク・ムーブメントと似たような構造があって、ある種のファッションとしての側面、商業的な側面などもあるわけだけど。


ある種の現代芸術は、そういう「パフォーマンス」という芸術の側面があるわけだけど、それには上記のような文脈があって、その文脈の上によってしか評価できないものもある。
でも、もちろん、それ以外の見方もあるわけで、鑑賞する人間というのは、「自分が挑戦されているのだ」という自覚を持って見る必要がある。


ところで全く関係ないけど、構図あるいは構成って語って、compositionという語の要素を殆ど持っていないですね。
com-posititonだから、配置と配置の結びつきなんだろうと思う。
まぁ英語圏のひとは、いちいち単語を分解して考えたりしないとは思うんだけど、原義的な意味で。